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by hirooacquapazza
| 2011-05-03 11:37
| イベント情報
日高です。
4月30日土曜日、気仙沼へ行ってきました。
かれこれ10年ほど前から、
ある方のご縁で気仙沼市民の皆さんに料理を作りに行ったり、
地元の食材を使った子供たちのレシピコンテストの審査員をさせて頂いたりと、
何かと訪れる事が多かった場所です。
気仙沼大使の肩書まで頂戴し、気仙沼及び三陸は、私のお気に入りの場所であり、
お店にとっても欠かせない食材の宝庫でした。
震災後、自分に出来ることとは・・・
と自問自答しても、無力にも答えは出ず、炊き出しも受け入れの問題や、準備、
設備等難しさがありました。
我々料理に関わっている人間にとって「食」を通じて、自分たちに出来ることを
続けていきたい。そんな漠然とした考えのみがありました。
そこで現地の知人を訪ね、自分の役割を模索することとしました。
現地では、気仙沼商工会議所の臼井会頭や造り酒屋「男山」の菅原社長といった、
街の復興に中心的に尽力されているお二人からわざわざお時間を頂き、貴重な話
を伺いました。
また、アクアパッツァにいつもカラスミを届けてくださっていた唐やの
吉田恵一さんがわざわざ町を案内してくださいました。
男山酒造も津波がもう目の前まで迫っていたそうですが、なんとか辛うじてもろみ
が生き残っていたそうです。あと津波が1m高かったら駄目だっただろうとおっし
ゃっていました。
3階建てだったたてものは、1階だけになっていました。
そのことが、日経新聞に紹介され、それを見た全国の方々から「酒造りに役立てて」
と機械や支援の物資が届けられたとのことです。
左が唐やの吉田さん、右が男山の菅原社長です。
漁港での一枚。
焼け焦げた船。
また一方で、ほとんどの船が津波の被害にあった中、臼井会頭の船6隻は海外に出て
いたため、難を逃れたそうです。写真左側が臼井会頭の船です。
この生き残った船が、町の復興の足がかりになるような、そんな希望の象徴のように
も感じられました。
吉田さんが車を走らせながら、色々な話をしてくださいました。
2週間ほど前、ようやく瓦礫をよけて道路が通れるようになったとのことでしたが、
想像以上の光景で、現状からの復興は、気の遠くなるような、そう簡単ではないと
改めて思いました。
メディアの報道だけでは伝わらない、惨いもの、運命の残酷さがそこにありました。
しかし、皆さんからは「自分達には海しかない。」という思いが伝わってきました。
気仙沼の復興には、やはり「海」がキーワードなのだと感じました。
新しい気仙沼を「海」から作りだす。
吉田さんのお話では、取引先である町の飲食店も大きな被害に遭われ、何人もの方
が命を失われ、また、なんとか命が助かった方も別の場所での商売をするために地
元を離れるか…と迷っている方も多いということでした。
そこで、今元気な人たちがそういった人たちを支え、仮設レストランを作り、皆で
留まれる方法を模索しているそうです。
長年その土地で商いをしてきた生産者の方たちにとって、町にとって、地元の飲食
店の再生なくしては、復興はありえないことです。
地震の後、私自身正直、レストランの役割を見いだせない時期もありました。
しかし、気仙沼で必死に復興に向けて動いている町の人たちの姿、お話を伺い、
飲食店の役割の大きさを実感しました。
あの悲惨な津波の中でも何とか残ったカラスミ工場。
一生懸命商品を作り続ける吉田さんがいました。
吉田さんのお父さん(右)にもお会いすることができました。
他にもたくさんの生産者の方が、瓦礫を避けながら、自分たちの力の限りに
生産活動を行っています。
我々料理人にできることは、それらの生産者の皆さんが作られた食材を受け取り、
それを美味しい料理に活かして、お客様に提供することだと。
新しい気仙沼を「海」から作りだす。
男山酒造の「もろみ」や、臼井会頭の「船」。
吉田さんの仮設レストランのお話。
気仙沼に訪れ、3人の方から教えて頂いたことは、
運命のむごさの中にある奇跡的に残ったもの。
それを次に繋げようとする力でした。
私の感じたことを書かせて頂きました。
被災地の皆さんの言葉には重みがあり、私の言葉では表現できないため、
伺った事と私の立場で感じたことをブログに書かせて頂きました。
今は料理人として出来る限り「食材を活かす」仕事をしていこうと思っています。
4月30日土曜日、気仙沼へ行ってきました。
かれこれ10年ほど前から、
ある方のご縁で気仙沼市民の皆さんに料理を作りに行ったり、
地元の食材を使った子供たちのレシピコンテストの審査員をさせて頂いたりと、
何かと訪れる事が多かった場所です。
気仙沼大使の肩書まで頂戴し、気仙沼及び三陸は、私のお気に入りの場所であり、
お店にとっても欠かせない食材の宝庫でした。
震災後、自分に出来ることとは・・・
と自問自答しても、無力にも答えは出ず、炊き出しも受け入れの問題や、準備、
設備等難しさがありました。
我々料理に関わっている人間にとって「食」を通じて、自分たちに出来ることを
続けていきたい。そんな漠然とした考えのみがありました。
そこで現地の知人を訪ね、自分の役割を模索することとしました。
現地では、気仙沼商工会議所の臼井会頭や造り酒屋「男山」の菅原社長といった、
街の復興に中心的に尽力されているお二人からわざわざお時間を頂き、貴重な話
を伺いました。
また、アクアパッツァにいつもカラスミを届けてくださっていた唐やの
吉田恵一さんがわざわざ町を案内してくださいました。
男山酒造も津波がもう目の前まで迫っていたそうですが、なんとか辛うじてもろみ
が生き残っていたそうです。あと津波が1m高かったら駄目だっただろうとおっし
ゃっていました。
3階建てだったたてものは、1階だけになっていました。
そのことが、日経新聞に紹介され、それを見た全国の方々から「酒造りに役立てて」
と機械や支援の物資が届けられたとのことです。
左が唐やの吉田さん、右が男山の菅原社長です。
漁港での一枚。
焼け焦げた船。
また一方で、ほとんどの船が津波の被害にあった中、臼井会頭の船6隻は海外に出て
いたため、難を逃れたそうです。写真左側が臼井会頭の船です。
この生き残った船が、町の復興の足がかりになるような、そんな希望の象徴のように
も感じられました。
吉田さんが車を走らせながら、色々な話をしてくださいました。
2週間ほど前、ようやく瓦礫をよけて道路が通れるようになったとのことでしたが、
想像以上の光景で、現状からの復興は、気の遠くなるような、そう簡単ではないと
改めて思いました。
メディアの報道だけでは伝わらない、惨いもの、運命の残酷さがそこにありました。
しかし、皆さんからは「自分達には海しかない。」という思いが伝わってきました。
気仙沼の復興には、やはり「海」がキーワードなのだと感じました。
新しい気仙沼を「海」から作りだす。
吉田さんのお話では、取引先である町の飲食店も大きな被害に遭われ、何人もの方
が命を失われ、また、なんとか命が助かった方も別の場所での商売をするために地
元を離れるか…と迷っている方も多いということでした。
そこで、今元気な人たちがそういった人たちを支え、仮設レストランを作り、皆で
留まれる方法を模索しているそうです。
長年その土地で商いをしてきた生産者の方たちにとって、町にとって、地元の飲食
店の再生なくしては、復興はありえないことです。
地震の後、私自身正直、レストランの役割を見いだせない時期もありました。
しかし、気仙沼で必死に復興に向けて動いている町の人たちの姿、お話を伺い、
飲食店の役割の大きさを実感しました。
あの悲惨な津波の中でも何とか残ったカラスミ工場。
一生懸命商品を作り続ける吉田さんがいました。
吉田さんのお父さん(右)にもお会いすることができました。
他にもたくさんの生産者の方が、瓦礫を避けながら、自分たちの力の限りに
生産活動を行っています。
我々料理人にできることは、それらの生産者の皆さんが作られた食材を受け取り、
それを美味しい料理に活かして、お客様に提供することだと。
新しい気仙沼を「海」から作りだす。
男山酒造の「もろみ」や、臼井会頭の「船」。
吉田さんの仮設レストランのお話。
気仙沼に訪れ、3人の方から教えて頂いたことは、
運命のむごさの中にある奇跡的に残ったもの。
それを次に繋げようとする力でした。
私の感じたことを書かせて頂きました。
被災地の皆さんの言葉には重みがあり、私の言葉では表現できないため、
伺った事と私の立場で感じたことをブログに書かせて頂きました。
今は料理人として出来る限り「食材を活かす」仕事をしていこうと思っています。
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by hirooacquapazza
| 2011-05-02 19:57
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by hirooacquapazza
| 2011-04-21 14:27
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